2024年


ーーー9/3−−−  松葉杖体験 


 
8月20日に骨折事故を起こし、21日に入院。手術を終えて退院したのが24日、それから早くも一週間以上が経った。

 病院に入院するのは、過去にも蓄膿症の手術、登山中の火傷、慢性気管支炎の治療など、何度かあった。もっと古くは、生まれた時であったが、これは退院のみ。そのうち、入院のみという事態が訪れ、帳尻が合うだろう。

 骨折と言うのは、初めての事である。足の骨を折ったので、手術の翌日から松葉杖を使うことになった。これが、予想以上に、快適から程遠い代物だった。リハビリの先生によると、松葉杖が上手に使える年齢のボーダーラインは、70歳とのこと。なるほど、ならば仕方無いか。     

 何事も、実際にやってみなければ、本質は分からない。ほんの10センチ程度の段差の上り降りが、松葉杖のケンケンではまことに厄介である。そんな想定外のことに、気付かされた。  

 昨年だったか、テレビで片足の登山家のことを取り上げていた。年齢は60歳くらいの男性である。松葉杖の形では無かったが、両手に杖を持って山に登る。百名山を目指しているとの事だった。

 取材の時は、北アルプスの稜線の岩場を辿っていた。杖を巧みに操って、三点支持を要するような岩の斜面を、ヒョイヒョイと上ったり降りたりしていた。一見して大変な事だとは思ったが、実感と言うようなものは沸かなかった。松葉杖の実際に触れた今では、あり得ない事だと、あらためて思う。

 取材のさなか、健常者の登山者が、バテバテになって登山道の脇に座り込んでいた。片足の登山家は「無理をしないで下さいね」と気遣い、「どうぞ気を付けて」と声をかけて別れた。それが何とも印象的だった。

 ところで、自宅に戻って暫くすると、松葉杖がとても鬱陶しくなった。室内の限られたスペースでは、取り回しが悪くて使い辛い。また、立てて置いても倒れたりして、邪魔である。また、ベッドから立ち上がって松葉杖に移る時、またその逆の時、バランスを崩しそうになる。なにせ70過ぎだから。

 そこで、以前ラジカセを置くために自作した、キャスター付きの腰高の台を、にわか歩行器として利用することを思い付いた。

 当然予想される問題点として、キャスターだから床との抵抗が少なく、勝手な方向へ突っ走ったり、重心がずれるとひっくり返ったりする恐れがある。それらに注意を払いながら、試しに使ってみたら、結構安全性が高かった。キャスターの車輪の径が小さいので、暴走する可能性が低く、また全体の構造として安定性があり、剛性も高くて信頼できる。

 それで、松葉杖から切り替えた。以後、そのキャスター付きラジカセ台を、もっぱら使っている。松葉杖では、物を同伴できないが、この台なら上に物を乗せて運ぶ事もできる。たとえば、スマホ、飲み物のボトル、新聞など。サイズも、邪魔にならない大きさで、ちょうど良い。

 以前、同居していた父母のために自作して設置したトイレや玄関の手摺も、今回はじめて「こんなに有り難い」と感じた。

 自作の家具や手摺が、思いがけずもこのような状況で、体をサポートしてくれる役に立ち、なんだか嬉しくなった。




ーーー9/10−−−  18日間の禁酒


 
9月4日で、骨折事故から二週間経った。事故翌日から四日間の入院中はもちろんだが、その後も自発的に禁酒することを決めて、続けている。医者は、度を越さなければ飲酒は問題無いと言ったが、身内に強硬に反対する者がいた。それは長女。以前旦那が骨折をした時の経験から、二週間は禁酒すべきだと強く主張したのである。ともあれ、こんなに長い日数に渡って禁酒をするのは、二十数年前に気管支炎で松本の病院へ入院して以来である。

 この期間は、酒を切らすと体にどのような変化が生じるかを検証する、貴重な機会になった言える(笑)。

 まず心配されたのは、夜眠れない事。これまで、お酒が睡眠薬の代わりだと思っていた(酔えばすぐ眠れるから)。実際に、飲酒を制限すると睡眠障害が出ることがあった。翌朝早出の場合などに、飲酒を少なめにすると、なかなか寝付けなかったり、眠りが浅かったりしたのである。

 ところがこの二週間、全く問題無かった。午後8時にベッドに横たわり、本など読むうちに眠りにおち、翌朝5時くらいまでは確実に眠れる。途中二回くらいトイレに起きても、その後継続して眠れる。寝過ぎではないかと思うくらいである。

 次に心配されたのが、アルコール禁断症状。これまでの日常は、夕方になると酒が目の前にちらつくほど飲みたくなったものだった。今回、固い決意で禁酒を宣言したが、もの凄い辛さを伴ったら、意志薄弱な自分が耐えられるかどうか。

 ところが、何ら禁断の苦痛が無かった。この二週間、酒を飲みたいと思った事は一度も無い。まるで別人と入れ替わったようで、気味が悪いくらいである。怪我をして、痛みがあったり、不自由だったりすると、体が酒を受け付けなくなるのだろうか? そう言えば、ヒマラヤの高所の空気が薄い場所に滞在すると、どんな酒好きでも、酒を飲みたいと思わなくなるそうである。生理現象で酒を忌避することが、あるのだろう。

 ところで、健康全般について、酒を止めたから特に調子が良くなった、と言うような事は、今のところ無い。毎朝測定している血圧の値にも、特段の変化は無い。ただ、朝起きた時の気分は、多少は爽快かな。

 一方、体重が減ってきた。これまで4ヶ月間ダイエットを続けてきて、78Kgから5Kgほどのダウン、最小で72.6Kgまでしか達成できていなかったが、この二週間でさらに2Kgほどストンと落ちた。普通通りに食べ、ベッドでゴロゴロしていたから、太ることを心配していたのに、このデータである。以前、健康診断を受けた時に、説明をしてくれた医師が、「お酒を止めれば、劇的に体重は減りますよ」と言っていたのを思い出した。 

 さて、自分が設定した禁酒の期限である9月7日がやってきた。酒を断ってから、18日目である。この日は、長野市のライブカフェで出演を予定していた当日。骨折で出られなくなり、メンバーに迷惑をかけた。その罪滅ぼしのために、この日まで禁酒をすることに決めたのである。

 特に飲みたいとも思わないけれど、期日が来たので飲みましょうというのが、酒飲みの意地であり、変なプライドであり、愚かで悲しい性である。意気揚々とウイスキーのボトルを引っ張り出してきた私に向かって、カミさんは、至極当たり前の事だが、飲み過ぎないようにと釘を刺した。酩酊して転んだりしたらいけないと。私は、酔っぱらって自宅で転んだ事など一度も無い。そう言いたかったが、その言いぶんが空虚に響くことは自明なので、口に出すのを止めた。




ーーー9/17−−−  QRコード


 
この春に、リンゴ農園でアルバイトをしていたときのこと。休み時間の雑談で、オーナーから、「大竹工房のホームページはあるのですか?」と聞かれた。私が、「20年くらい前から作ってあります」と答えたら、「QRコードでアクセスできますか?」と重ねて問われた。それはやっていない。

 オーナーは、紙に印刷されたQRコードを示して、「これがうちのリンゴ園のQRコードです」と言った。スマホをかざして読み取ったら、即座にリンゴ園のホームページが現れた。オーナーは、簡単に無料でできるから、ぜひ作ってみて下さいと言って、関連するアプリを教えてくれた。

 私も人並みに、自分のホームページへの誘導というものは考えている。たとえば山小屋に納めている「象嵌物語」。パッケージのポリ袋の中に、説明書きの紙片を入れているのだが、そこに「大竹工房」と記載し、脇に虫眼鏡のマークを付けた。要するに、大竹工房で検索すれば見られますよという誘導である。ホームページのアドレスなどを記載しても、見た人がそれをインプットして検索をする可能性は低いと考えた。その一方、「大竹工房で検索をすればホームページが見られます」などと文章を記載をするのは、紙面も取るし、なんだかダサい。この、工房名と虫眼鏡のセットは、なかなかスマートで良いと、自分では思っていた。

 しかしリンゴ園のオーナーは食い下がる。単語を打ち込んで検索をするのと、ダイレクトにアクセスできるQRコードとでは、利便性が大きく違う。QRコードのリンクなど、いとも容易に出来ることだから、やってみましょうと言って、実際にリンクをかける方法を、その場で教えてくれた。

 そこまで言われて取り合わないのも、なんだか気が引ける。自宅に戻ってからパソコンに向かい、QRコードを作ってホームページにリンクさせ、紙に印刷してみた。それをスマホで読み取ったら、ただちに大竹工房へジャンプした。それは当然のことだが、なんだかちょっと心を動かされた。ITの魔力とでもいうものか。

 とりあえず、燕山荘に納めている象嵌物語のパッケージに、QRコードのシールを張ることを思い付いた。シールは、A4のラベル用紙(裏面が糊)に、一枚当たり150コマ印刷する。およそ18ミリ角のコマを、カッターナイフで切り分けて、裏紙を剥してパッケージに張ればよい。その裏紙を剥すのが、けっこう面倒だった。

 8月20日に、納品する品と共にシールを持って燕山荘に上った。シールを張ることの許可をお願いし、もし承諾されれば、既に納めた在庫品にも張らせてもらう目論みだった。売店担当の女性スタッフ、顔なじみのTさんに会って話をしたら、「大丈夫とは思いますが、一応社長の許可を得させて下さい」と言った。ちなみに、売店で売っている他の商品には、QRコードが付いた物は無いとのこと。しばらくして社長の赤沼さんが現れたので、Tさんがその話をすると、「大竹工房の宣伝になる事なら、何でもやって下さい」と、二つ返事で了解して下さった。

 私は、張る作業を自分でやるつもりで出掛けていた。限られた時間で能率よく張るために、200数十枚のシールに、裏紙が剥し易いような細工をして持参していた。ところがTさんは、空いた時間に自分らでやりますと申し出てくれた。なんだか申し訳ないような気がしたが、お願いすることにした。燕山荘のスタッフは、ほんとうに良く気が付く、素敵な人たちである。

 このQRコードが、今後どのような効果をもたらすか、楽しみである。







ーーー9/24ーーー  ユーモアとは


 「ユーモアとはなにか」、とネットで検索してみたら、「人間生活ににじみ出る、おかしみ。上品なしゃれ。人生の矛盾・滑稽(こっけい)等を、人間共通の弱点として寛大な態度でながめ楽しむ気持」という解説があった。

 なかなか的を得た表現だと思う。外国の辞書の文面を翻訳したもののようだが、ここまで明快に言い表すのは、それこそユーモアのセンスが無ければ出来ないように思う。特に後半が良い。「弱点」という語はちょっときついかとも思うので、「弱さ、哀しさ、いたらなさ」で置き換えてみたらよりピンと来るか。

 キーワードは「共通」と「寛大」だと思う。言い換えれば「共有」と「寛容」となるか。ユーモアとは、人生で経験した出来事や身に付けた価値観を、寛容の精神で共有するということだと思う。そのきっかけとなる物は、心を解きほぐす「笑い」と「楽しさ」である。

 だれでもやりがちなミスや思い違いを、軽妙に取り上げて、そのおかしさ、ばかばかしさを共有する。そうすることで、「誰でも同じなんだ」とか「私だけじゃないんだ」と納得し、心が落ち着き、安心する。しかし、おかしさを口にしたり、笑いのネタにするのは、若干の緊張を伴うことがある。「不真面目だ」とか、「人を馬鹿にしている」とか。そういうことに目くじらを立てず、寛容の精神で受け流す。そのようにして、お互いの関係を楽しむのが、ユーモアである。

 自分の世界だけに拘って、外の世界を認めようとしない者は、ユーモアとは無縁である。他者と何かを共有すると言う意欲が無いからである。また、自分の価値観から外れたものに対して、ただちに拒絶したり、腹を立てたりする者も、ユーモアから縁遠い。寛容な精神が欠如しているからである。

 外国映画などを観ると、ユーモアというものが人の資質として重く扱われるシーンに出くわすことがある。「あの男は、これこれの学問をおさめ、これこれのスポーツにたけており、しかもユーモアのセンスがある」というような感じ。ユーモアのセンスが有るということは、ひとかどの人物の条件ということなのだろう。それは、他者といろいろな物を共有できる視野の広さと豊かな感性、そして他者に対して寛容であるという客観性と冷静さ、そして隣人愛というようなものが、人を評価する際の基準になっているためと思われる。

 ところで、会社員時代、インドの天然ガスパイプラインの仕事で、フランスの企業と共に仕事をしたときのこと。ニューデリーの事務所で働いていた、あるフランス人のエンジニアは、貴族の出とかで、一風変わっていた。見るからに素敵なジェントルマンで、立ち居振る舞いはとてもスマート、応対も丁寧で感じが良かった。ところが、言う事が変わっていた。「私は笑うことが嫌いだ。人を笑わすつもりは無いし、人から笑わされるのも嫌だ。私に向かって、冗談は言わないでくれ」と言うのである。彼が言う「笑い」は、ユーモアとは次元が違うことを指していたのかも知れない。しかしその話を聞いて、当時の私はあちらの社会の多様性に驚かされたものだった。